『ランジェ公爵夫人』

原題:Ne touchez pas la hache

監督・脚本:ジャック・リヴェット

出演:ジャンヌ・バリバール/ギヨーム・ドパルデュー/ビュル・オジエ/ミシェル・ピコリ/アンヌ・キャンティノー /マルク・バルベ/トマ・デュラン/ニコラ・ブショー/マチアス・ジュング/ジュリー・ジャッド/ヴィクトリア・ジニー/レモ・ジローネ/ベッペ・キエリーチ/ポール・シュヴィヤール/バーベット・シュローダー/ビルジ・ルトヴィグ/ドゥニ・フレド/クロード・ドロジェール

原作:オノレ・ド・バルザックランジェ公爵夫人
製作:マルティーヌ・マリニャック/モーリス・タンシャン/ルイージ・ムジーニ/ロベルト・チクット/エルマンノ・オルミ
脚本:パスカル・ボニゼール/クリスティーヌ・ローラン
撮影:ウィリアム・リュプチャンスキー
美術:マニュ・ド・ショーヴィニ
音楽:ピエール・アリオ
衣装:マリア・ラメダン=レヴィ
配給:セテラ・インターナショナル

2006年/フランス・イタリア/137分/カラー/35mm/ビスタサイズ/ドルビーSR

あらすじ
1823年、ナポレオン軍の英雄モンリヴォー将軍がスペインのマヨルカ島にある修道院を訪ねる。厳格な戒律の下に身を置くフランス人修道女テレーズこそ、かつて愛した女性アントワネットだった。5年前、パリの社交界で出会った彼女はランジェ公爵の妻だったが、たちまち恋に落ちたモンリヴォーは押しの一手で愛を捧げる。ところが、夫人は思わせぶりな態度で焦らすばかり。業を煮やしたモンリヴォーは反撃に転じる。

解説
恋愛の神髄は駆け引きにあり。文豪バルザックの原作を『美しき諍い女』に続いて名匠ジャック・リベットが、緻密さと映像美を駆使した本作の主人公二人は徹頭徹尾、恋にうつつを抜かす。退廃的な有閑階級を象徴するランジェ公爵夫人が仕掛けた恋のゲームは、武骨な軍人には到底受け入れられず、駆け引きを楽しむという暗黙のルールは破られ、ゲームの支配者は鮮やかに入れ替わる。結果、すべてを投げ打つほどの情熱と苦悩をもたらすのだ。『恋ごころ』に引き続きリベット作品のヒロインをつとめるジャンヌ・バリバールと、堂々たる体躯で恋に身を焦がすモンリヴォー役のギョーム・ドパルデューが見事にはまっている。




ネットで『ランジェ公爵夫人』に関する山田宏一の文章を発見。あまりにも誘惑的な文章だったので、とりあえず観てまいりました。

以下、山田宏一の文章の引用。<試写室で見そこなって、劇場(東京神田神保町岩波ホール)で見たのですが、フランスの文豪バルザックの同名の小説を映画化した文芸作品かと思いきや、なんと、思いがけず、むしろ、ヌーヴェル・ヴァーグ(「カイエ・デュ・シネマ」誌の批評家出身の映画作家たち、とくにフランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダールジャック・リヴェット)の偏愛したニコラス・レイ監督の異形の西部劇「大砂塵」(’54)のほとんどリメークとも言うべき作品でした。もちろん、バルザックの小説の映画化なのですが(コスチュームものです)、すでにニコラス・レイ監督の西部劇がその最初の映画化だったのではないかという不思議な、しかし確信に近い思いにとらわれました。
 交通事故で右足の切断を余儀なくされたギヨーム・ドパルデュー(ジェラール・ドパルデューの息子)が義足で、しかもジャック・リヴェットの映画ならではの足音を反響させて歩く姿が、じつに感動的なのですが、そのギヨーム・ドパルデューの演じる将軍が忘れられない女(ジャック・リヴェット映画のヒロイン、ジャンヌ・バリバール扮するランジェ公爵夫人)に修道院で格子をはさんで再会し、愛と未練の対話を交わすシーンなど、まさに「大砂塵」のジョニー・ギター(スターリング・ヘイドン)とヴィエンナ(ジョーン・クロフォード)が再会して夜の酒場で愛のうらみつらみを言い交わすシーンそのままです。男は女に「われを忘れるほどに、気も狂わんばかりに、かつてあなたがわたしに愛されたいと願ったように、あなたを愛している」「わが魂の力がおよぶかぎり、あなたを愛している」「ああ! この壁をわたしのために越えてはくださらぬのか、わたしはそれを知りたいのだ」と未練がましく迫り、女は男に「あなたのお側を離れることはありませぬ」「かつてなかったほどに、あなたを愛しております」と答える。同じように(!?)、「大砂塵」では、ジョニーが「行かないでくれ」「やさしいことを言ってくれ」「嘘でもいいからずっと待っていたと言ってくれ」「俺が戻ってこなかったら、死んでいたと言ってくれ」としつこく迫り、ヴィエンナが「どこにも行かないわ」「ずっと、あなたを待っていたわ」「あなたが戻ってこなかったら、死んでいたわ」と答えるのです。
 「大砂塵」は「エモーション(情動)の西部劇なのです。台詞がすばらしく、演劇のような、それも古典悲劇のようなせりふ回し、強い情熱と繊細な感受性にあふれた諧調の詩句です」とトリュフォーは絶讃し(「シネ・ブラボー3/わがトリュフォー」、ケイブンシャ文庫)、ゴダールはニコラス・レイの映画においては「うちくだかれた自尊心、ねたみ、悔しさ、恨みと一体になった野心といった、よりバルザック的な感情が主調をなしている」と分析し、「……『大砂塵』の冒頭のシチュエーション(状況設定)はどこで見つけることができるのか? さがしまわるまでもなく、『ランジェ公爵夫人』の第二部においてである」と書いています(「ゴダール全評論・全発言I」、奥村昭夫訳、筑摩書房)。
 ジャック・リヴェット監督の「ランジェ公爵夫人」は、あたかもその映画的回答であり結論であるかのように思えるのです──ランジェ公爵夫人を演じるジャンヌ・バリバールが「大砂塵」のジョーン・クロフォードのように醜い(?!)こともふくめて。>

で、映画を観た感想はというと、う〜ん、そんなには感心しなかったなぁ・・・
もうこうなってくると、映画が好きなのか、映画について書かれた山田宏一の文章が好きなのか、自分でもよくわからなくなってきました・・・